ライトノベル受賞作品

欠けたるもの

 男が生まれた時、既に主の存在への信仰は深かった。
生まれつきの盲目である男は、よにある全ての中で何かに顔を向けたことなど一度も無かった。
そう思うことすら無かった。
 だが、歳を重ねるにつれ、入る情報の量が多くなったのだろう。
知らぬ間に耳にしていた”主”の名が、いつしか…初めて男の興味を向ける言葉となっていた。
初めはその言葉を耳にする程度であった。
それでも人の流れは素早いもので、多くの神話や髪を想像した(彫刻や絵画などの)作品が、迷うことなく男の手元へと転がって来たのだ。
男はその形あるモノに触れることで、主の姿形を想像できることを望んだのである。
 初めて全ての存在に降り注ぐ主の生命を知った男は、頭の中で広大に鳴り響く鐘の音に気が付いただろうか…。
それほどまでに完璧な存在がいたことを。
主の名の下、崇高なる存在への尊敬と驚きが一瞬にして過ぎ去って行く。
同時に、己のみえない事実に改めて気付かされているようで非常に悔しかった。
 彫刻に触れる機会が訪れた時、男の心は非常に激しい感情を巻き起こしていた。
(主の姿を、俺は今から知れるのだ。)という高揚感が男の脳内を占領した。
そして、とうとう彫刻に触れる瞬間。
男は頭の頂点から足元にかけてゆっくりとなぞって行く。
途中(これは眼か。これは手か。)と考えながら触れていた。
然し、暫くして男の興奮は綺麗に失われてしまった。
彫刻の形が、あまりにも人間と変わりなかったのである。
代わりに残った感触だけが、虚しく。
(嗚々…嗚々。俺が知りたいと望んだ主の姿は、余りにも我々と似過ぎていたのだ。…何とも面白くない。面白くない。)
手に残り続けているわずかな冷たさに、男は何度も人差し指と親指の腹を擦り付けた。
非常に落ち込んだ気持ちが、腹の中に溶け込んでいくのを感じながら、尚も男は擦り付けた。
(これが神か。普通だ。人間となんら変わりないではないか。)
何度も何度も普通だ、変わりのない姿だと頭を項垂れつつ…ふと男の虚しさやそう言う感情は別の何かへとわかり始めた。
(俺は人の姿だ。人間の形だ。そうさタッタ今、手に触れた主と同じ姿形である。)
指の動きがぴたりと止む。
(だが、如何して、如何してだろうか。こんなにも主と人である俺は似通っているのに!主は完璧だ。全てにおいて…。)
指に集中していた意識は、腕から心臓へと移って行く。
それがそのまま頭へと上り、ぐわん、と視界が揺れまじめた。
(俺は全体に、誰が言おうと”完璧”な存在にはなれないのだ。)
額に冷や汗がにじむ。
自然と握られていた手の平は、力を入れ過ぎていたのかじわじわと熱を生んでいる。
首裏には、鳥肌がわずかに立ち始めていた。
(俺は…。)
力が抜けて行く膝をおさえて、何とか後ろを向くことができたのの…。
背後に感じる彫刻の…主の視線が哀れみを含ませているように感じた。
男は青冷めながら、足早にその場を後にする。
「……。」
辺りは日が落ち、もう既に夜である。
然し、残念ながら、男はその欠けの為…そして今の精神の為、気にならなくなっていた。むかむかと痛む胃をかばうように、また、何かから逃げるべく男は歩いた。
走ることなどできるはずもなく、唯、がむしゃらに。
何に追われているのかと聞かれれば、それは男にも答えることができなかった。
唯々闇雲に、名も知らぬ不安感から離れようと努力した。
「嗚々唯々闇雲。」
(助けてくれ。助けてくれ。…俺は生きていたいのだ。…欠けを持つ俺が、まだ、この時代に……。)
急激な息苦しさが胃の中を遮二無二暴れ回っている。
(だが、如何やって…。如何やって。)
ふらふらと足元が揺れているのを、尚、止めることはできない。
ぶらり、と虚無を向く男の眼球に写るのは、もはや暗く、沈み、わずかに光る黒のみである。
…たった、それだけである。